中でも、震洋艇の基地は鳥羽から志摩にかけていくつも構築された。
今回はその一つである鳥羽にある震洋艇の基地へと行ってみた。

そろそろ寝ようかと思っていた土曜日の深夜。
雨模様の予報だったのだが、鳥羽方面は晴れるという。
ならば、と、深夜3時に鈴鹿市を出発した。
目指すは、鳥羽駅の少し先にある安楽島(あらしま)町。
ここに第60震洋隊基地があったという。
安楽島町といっても夏島町と同じく、島では無く陸続きになっており、車で乗り入れが可能だ。

空が白み始める頃に現地到着。
作戦はこうだ。
この赤丸の所から海岸沿いに歩いて行けば、震洋艇の基地に辿り着けるはず。
簡単なアクセスを想像しつつ、仮眠を取ることにした。

朝9時起床!!
超いい天気。
つーか、暑くて寝てられない。
ということで、早速行動開始だ。

早速海へと続く道へと進む。
どんな遺構が遺されているのかわくわくする。

海面が見えてきた。
海はもうすぐだ。

しかし・・・。
海面しか見えてないじゃん!!
こちら側から海伝いに行くことは完全に無理そうだ。
潮の満ち引きとか関係なしに、岸壁は切り立っており海沿いを行くことは困難だ。
高巻きに森を進めばとも思ったが、入って行けそうな所は見当たらなかった。

ならば、と、反対側から攻めることにした。
岬には神社がある。
地形図にも神社までは山道が描かれている。
それにしても、入り江にある家屋はなんだ!?

集落を越え岬の入り口へとやってきた。
看板には伊射波(いざわ)神社と書かれているが、加布良古神社ではないのか!?
とりあえず進んで行く。

車で行くかどうかしばらく迷ったが、軽トラのものらしき轍もあるしと突入!!
ハイエースだととにかく狭い。
道の両脇の落ち葉を踏みながら進入した。

両側のタイヤが道から落ちそうになりながらしばらく進むと分岐があった。
よかった・・・。
とりあえずここでUターンが可能だ(超狭いけど)。

右に折れると道は切り通しとなっていた。
ここで、車で上っていくのは完全に無理と判断。
軽トラならなんとかなりそうなのだが、ハイエースだと左右のタイヤが路肩の落ち葉の上に乗ってしまい、つるつると滑る。
つーか、左右ともミラーが当たりそうだよ。
既に無理をしているような気もするが、無理は禁物と戻ることにした。
先ほどの分岐にてハンドルを何度も切り返し、なんとか向きを変えることに成功。
車を駐め、こんどはチャリに乗り換えて進入していく。

山道を登ったり下ったりでへとへとになりながら進んで行く。
突然現れた簡易舗装には 2010.11 の文字が。
随分と最近に整備されたようだ。

案内板を発見。
神社までは一本道のようだ。
その先には展望台があるようだ。

しかし、道のりは長かった。
初夏と言うにはあまりに強烈な日差しが体力を奪っていく。
おまけにものすごい上り坂。
まるで階段。
なんだこれ。

登ったり下ったりを繰り返して進んで行くが、チャリが邪魔!!
道にはなっているが、まるきし山登りじゃん!!
登りは急すぎてチャリを上げるのが大変だし、下りも急すぎてチャリにまたがるどころじゃない。

これ以上無駄な体力を使うと無事に帰れなくなるかもとの不安がよぎり、ここでチャリを置いていくことにした。

汗だくだく、足ガクガクとなり、なんとか神社まで辿り着いた物の、海へと下る道が見当たらない。
展望台まで行ってみたが、観光で来る展望台とは全く違い、荒れた山道が続いているだけだった。
しかし神社ではなにやら祭典が催されており、そこで数人の地元の方からお話しを伺うことが出来た。
すると、たしかにこの下には基地が構築されていたらしい。
誰もこの下には降りたことがないと言っていたのが気になったが・・・。
お茶とお菓子を頂き、空になったペットボトルにまでお茶をたっぷり入れて頂き、探索再開。

事前調査で、戦時中、海へと下る軍道があったということは分かっていた。
このどこかに道があるはず。
目を皿のようにして森の中を見渡す。

あったー!!
まぎれもなく道だ。
海の方へ続いているのか!?

道は途中から階段のように急になった。
この写真はふり返って撮影したものだが、当時は階段が構築されていたようだ。

道を見失わないように注意しながら、どんどんと下って行く。
もう少しなんとかならなかったのかと思うような急坂だ。

道ばたに井戸のような物を発見。
用途は分からないが、かつて誰かがここで何かをしていたということにちょっと安心。
だって、道がさっぱり分からなくなってたから・・・。

道はなくなったが、海岸も近いのでがさごそと薮に突入。
薮を抜けるときれいな海岸へ出た。
この海岸は真珠の養殖業者が舟で来るだけらしく、閑散としていた。
彼方には朝方訪れたリゾートマンション群が見えていた。

岩肌に沿って進んで行く。

場所的にはこの辺かな。
けど、季節が悪すぎる。
この草の中に入っていくの?
まあ、草が酷いのは初めだけだろうと突入!!
入り江の奥へと進んでいくと・・・。

いきなり貯水槽を発見!!
このコンクリートの具合からして、太平洋戦争末期の物だろうか。

大きさは乗用車程度。
割合と深さがある。
配管の接続部分のような穴があることから、機械の冷却に使用していたのかも知れない。

すぐ隣にも小さめの貯水槽があった。

うわっ!なんだこれ。
こんな所に廃屋が。
そういえば地形図に家屋が描かれていたが、これのことか!!!

ということは、震洋艇の基地はこの場所に間違いない!
この崖にも壕口の気配が・・・。

辺りをくまなく調べていると、あった!壕口発見!

土砂でかなりが埋もれていたが、震洋艇の格納庫を発見した。

奥行きは 20m程度の単独壕であったが、震洋の格納庫は全国的に同様な物が多い。

その先にも壕口らしき物を発見。

しかしこちらは崩落により埋まっていた。

史料によると、かなり大規模な基地のようであったが、とにかく草木の繁殖がすさまじく、これ以上の探索はこの時期は無理と判断した。
というか、でっかい蛇が出て、かなりびびったんだよね。
(´・ω・`)ショボーン

降りるときの倍以上の時間をかけ、神社まで上がってきた。
頂いたお茶はすっかり空になっていた。

チャリを回収し・・・。

やっとの事で車まで戻ってきた。
3時間ほど山道を歩きっぱなしで、体力限界・・・。

鳥羽のファミリーマートで飲み物を調達。
屋根付き駐車場は珍しいな。
しかも、緑と青のコーポレートカラー。

神社にて、鳥羽駅の近くに震洋艇の模型があるというので観光案内所へ聞きに行ってみた。
しかし、そんな事聞いたことがないという。

もしかしたらここで分かるかもと言われ、赤福裏にある鳥羽市歴史文化ガイドセンターへ向かう。

しかし、ガイドセンターでも震洋の展示については分からないという。
その代わり、いろいろと貴重なお話しを伺うことが出来た。

体はへとへとだったが、車に乗ると元気が出てきたので、帰りは伊勢志摩スカイラインに乗って見ることにした。
頂上の展望台からは湾を一望できるらしい。

写真左奥に見えているのが答志島。
あそこにはいくつもの陣地が構築されていたらしい。
市営の連絡船で30分程度で行けるというので次回に行ってみよう。

海と反対側は、いくつもの山が連なっていた。

標高は500m程度しか無いようだが、とても気持ちの良い風が吹いていた。
設置されていた寒暖計の目盛りも、快適な温度を示していた。
しかし疲れた・・・。
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