昭和3年に陸軍はこの岬を買収し、東京湾要塞として整備をしたという。
ここを訪れたのはもう2年以上前となる。
基本的に地下壕に潜るのが好きなので、(掩蔽部はあるが)戦跡だけが残されている大房岬は記事にしていなかったのだが、ここに残されている探照灯跡は素晴らしい物なので今更ながら記事にしてみた。
探照灯とは敵機を発見するための強力なライトの事で、いわゆるサーチライトだ。
ちなみに、探照灯と呼んでいたのは主に海軍である。
陸軍では照空灯と呼んでいたらしいので、この施設は正しくは照空灯跡と思われるのだが、当記事では全て一般的な呼び名である探照灯と表記した。
陸軍が整備した要塞なので照空灯という呼び名が正しいと思っていたのですが、この施設の用途は海上警備では無いかとのご指摘を頂きました。
たしかに、東京湾に侵入してくる艦船を監視するのが役割だと思われますので、照空灯という呼び名には語弊があるかも知れません。
現地の説明版も探照灯と表記されていました。
(追記 2012.02.05)

この赤丸の部分が大房岬だ。(画像クリックで拡大)

現在は岬全体が公園として整備されているが、各所に当時の遺構が残っているという事で、早速公園内へ。
広場には砲台の基礎のような跡がそのまま残されていた。

少し歩くと盛り土の上に中途半端な花壇(?)が作られていた。
ここには砲台跡の看板が立っていた。

整備された公園なのに、地面からにょっきりと煙突のような通気口が生えている。
と言う事は・・・。

そう。
公園内にはこのような掩蔽部が多数存在するのだ。

と言っても、そのほとんどが弾薬庫跡であるため、内部には弾薬を保管していた倉庫があるだけだ。

中に入り天井を見上げると、先ほどの通気口が。

公園のメイン通りから外れ、裏手へと入り込むと、いくつもの遺構がそのまま遺されている。
公園から見えない部分は、ほとんど手をつけられていないようだ。

ここには何らかの機器を設置していた跡があった。

コンクリートの基礎部分には、ボルトが残っている。

天井部分には碍子が残っている。

4つ碍子が連なっているし、ここは変電設備だったのかも知れない。

公園の管理事務所が使用している倉庫も、当時の物を再利用していた。

倉庫の前には、東京湾要塞の地帯標が無造作に転がっている。

どんどんと歩いて行くと、探照灯跡地へと辿り着いた。
この写真は探照灯格納庫の上から、通路入り口を写したもの。

その格納庫がこれ。
なんか顔みたいだ。

当然内部には何も残されていない。
この部屋の周りをぐるっと囲むように隙間が作られていた。

探照灯は、格納庫からこの通路を通って、通路の奥で地上に上げられたという。

通路入り口にはなんだかでこぼこが。
この意匠の意味はなんだろう!?

通路に入ると、壁面には配線を這わせていた跡が残されていた。

床面は奥に向けてゆるやかなスロープとなっている。

通路をどんどんと進んで行くと、通路の壁面に入り口が有り、そこから上部へと上がれるようになっていた。
と言っても、当時あったであろうはしごは取り外されているため、見上げる事しか出来ない。

突き当たりには、コンクリートで固められた巨大な構築物が。
ここから探照灯を地上に上げていたのだろう。

見上げるとかなりの深さがあることが分かる。

終戦近くに構築されたものは、物資が不足していたせいかコンクリートの品質が極端に悪い物が多いのだが、ここは早い時期に作られたおかげで、コンクリートの品質は非常に良さそうだ。

ここに昇降機が設置されている姿を見てみたい・・・。

今度はここを上から見てみよう。

上部へ行ってみると塞がれた入り口が。
先ほどの通路にあった、はしごで登った先がおそらくここであろう。

公園内という事で、安全のために穴の周囲はフェンスで囲まれていた。
ここから落ちたらケガじゃ済まなそうだ。

と言うことで、公園内の遺構を紹介してきたが、ここにはこれ以外にもまだまだ遺構が遺されているので、今後も紹介して行きたい。
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