日清・日露戦争で活躍したこれらの砲台だが、大正12年の関東大震災により甚大な被害を受け、その傷跡が生々しく残っていた。

観音崎隧道を抜けた所に、防衛施設庁の石柱を発見。
この道を上がっていくと海上自衛隊の観音崎警備所がある。
この先はもちろん民間人は立入禁止なので写真だけ撮って戻る。
防衛施設庁は2007年に防衛省と統合してしまったため、この石柱も遺構なのか!?
ちなみに、観音崎自体が、戦時中は国防の重要拠点であったため、終戦の昭和20年まで一般人の立入は禁止されていた。

公園内に進入するが、奥の方に明らかに廃道っぽい道を発見した。
砲台跡へ向かう本来の道ではないが、とりあえず行ってみよう。

舗装されていた道はすぐに踏み跡に変わった。
何か遺構でもないかと行けるところまで行ってみたが…。

最後は車輪が埋まるほどの雑草に阻まれて進めなくなった。

気を取り直して本来の道へと戻る。
見た目以上にきつい上り坂のため、自転車を押しながら登っていく。

坂を登り切った所は見事な切り通しとなっていた。

突き当たった道を右に折れて少し下ると、観音崎第三砲台へ向かう通路がある。

この通路は掘削当時素堀だったのだが、後に煉瓦で補強されたらしい。

トンネル上部に大量の煤が付着している箇所があった。
また、覆坑が剥がれ落ちているなど破損も激しい。
もしかしたら終戦時に進駐軍によって破壊されたのかも知れない。

トンネルを抜けると左手に弾薬庫らしき物があった。
公園内ということもあり、入り口はしっかりとコンクリートで固められている。

右手弾薬庫内部。
先ほどのトンネル内と同様に爆破されているようで、内部の破損が目立つ。
爆破の際に上がった炎が天井を焦がしたようだ。

左手弾薬庫内部。
こちらも右側と同様に破壊されている。
左右にあるはずの窓枠の柱が無くなっていることから、こちらも爆破されたのではないかと思われる。

元の道へ戻り進んで行くと砲台跡が見えてきた。

砲台のすぐ脇に揚弾井らしき遺構が残っていた。
これは砲弾を弾薬庫から地上の砲台へと運ぶエレベーターのような物である。
この下には弾薬庫があると言うことだ。
と言うことは、当時はもっと深い堀となっていて、堀の両側に弾薬庫や兵員の待機所が作られていたのかも知れない。
そう言えば、トンネルを出てからここまで上り坂となっていたが、公園整備の際に堀を埋めて通路にしたのだろう。

早速よじ登って揚弾孔に入ってみる。

当然だが、地下に通じているはずの底部はしっかりと埋められていた。

砲台跡には大きな木が茂り、ここが使われなくなってからの長い年月を感じる。

砲座周辺をを調べていると、排水管のようなものを発見。

もしかして伝声管かとも思ったが場所もおかしいし、材質も陶器製であるためやはり配水管だろう。

中をのぞき込むと、破損しているのが分かる。
これも関東大震災でやられたのだろうか。
どこに続いているのかは、ネズミのみ知るという事だろうか。
この砲台跡の先にも砲座があったのだが、取り壊され海の見晴台となっている。
次回、埋没弾薬庫 / 立入禁止区域 へと続きます。
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