
ホテル内の地下壕探索を済ませた翌日、チェックアウトを済ませた我々は、富士宮に遺されているという陸軍少年戦車兵学校の遺構を見に行くことにした。

伊東から三島を抜け、新東名に乗って富士宮を目指す。

富士宮道路を上井出ICで降りる。
この周辺一帯の広大な敷地は、かつて陸軍の少年戦車兵学校があった場所だ。
当時この敷地内に建てられた、大宮陸軍病院の遺構があるというので見に行ってみる。
昭和17年に創立されたこの病院だが、戦後は国立富士病院として使用されてきた。
現在は病院の統廃合により廃院となっている。
管理物件のため、敷地内に入ることはしなかったが、当時の門柱の一部や、陸軍の標柱が遺されていた。

次に、若獅子神社へとやってきた。
ここは、陸軍少年戦車兵学校の教官や生徒を、祭神として祀っている神社だ。
昭和 59年に創建された、割と新しい神社だ。

境内には、戦車兵学校跡地の碑が建てられていた。

神社の駐車場入り口付近には、当時の門柱が移設されていた。
銘板はおそらく後年に作られたものだろうが、門柱横の金具は当時のものだろう。

境内をうろうろしていると、戦車が見えてきた。
あれが、サイパンからの帰還戦車 だろう。

機体はかなり損傷している。
装甲板の表面には弾痕らしき跡も見受けられた。
サイパンでこの戦車が発見された際、内部からは砲手の遺骨が回収されているという。

当初は雨ざらしの展示だったが、現在は屋根が設置されたようだ。

遺構を探しに、周囲をウロウロしてみる事に。

戦車学校の設立は昭和 14年。
その当時の地図には、黄色く塗ったこの周辺だけでも、たくさんの建物が描かれている。

道路に沿って土塁がきれいな形で残っている。
これは当時のものだろう。

戦車兵学校時代に貯水池として利用されていた場所は、現在上井出浄水場となり、現役で使用されている。

また、道路脇には (写真では分からないと思うが) 戦車を秘匿していたと思われる窪みが多数残されていた。

集落を回っていると、当時のものと思われる建物がいくつか見られた。
これも当時の建物だろう。
納屋に改築され、現役で利用しているようだ。

集落を抜けると、巨大な砂防ダムがあった。
富士山からの砂の流出は相当量があり、かなりの予算をかけていろいろな対策をしていると言うが、このダムもその一環なのだろう。

ダム周囲には、建設省の標柱が。
なんだか丸くてかわいい標柱だ。

道路脇の空き地に引き抜かれた陸軍の標柱が放置されていた。
Googleストリートビューのタイムマシン機能を使ってこの場所を見てみると、2015年の写真には標柱がしっかり写っている。
2012年の写真には写っていないように見えるのだが、どこからか持ってきて、ここに放置してあるのだろうか。

富士宮焼きそばとお好み焼きでお腹を満たし、今度は朝霧にある遺構を見に行くことに。

銀座スエヒロ富士店の脇を奥へと進み車を止める。
そして、藪の中を進んでいくと・・・。

何やらコンクリートの遺構が見えてきた。

基礎部分しか残っていないので上部の形状は分からないが、周囲には三角柱状のコンクリートが3つある。

三角柱の上部から撮影するとこんな感じだ。

三角柱の内部は扇状にくりぬかれており、中から外を見張れるようになっている。
銃眼と違い、弾を弾くための段々も無い。
この遺構の史料を見つけることは出来なかったが、恐らく戦車の弾道を見るための設備だったのではないかと言うことだ。

当時を知る貴重な遺構だと思われるが、現在は完全に放置されるままとなっている。

そして、この遺構と同様のものが、とある企業の私有地内にも遺されているという。
その企業を訪問し、担当者さんにご挨拶する。
あまりに広大な敷地なので、遺構付近まで車で連れて行ってもらえることに。
未舗装のガタガタ道をしばらく走り、案内の下、林へと入っていく。

私有地内のため、普段は見ることは出来ないのだが、祐実総軍三等兵氏がアポを取ってくれたおかげで、今回特別にその遺構に案内していただけることになったのだ。
前方に、何か小山のような盛り上がりが見えてきた。

小山の前方に回ってみると、巨大なコンクリートの遺構が現れた。

先ほどの遺構と同様にスリットが設けられているが、大きさは段違いに大きい。

遺構内部も、十分に立てるほどの高さが確保されている。

スリットの一つは破壊されており、大きく開口している。
この遺構には鉄筋が豊富に使われているので、戦後の金属泥棒の仕業なのかも知れない。

もう一つのスリットの内部は、何かをもぎ取られたような跡が残るものの、比較的状態が良い。
コンクリートにあるいくつかの窪みには、当時、何かをはめ込んであったのだろうが、今となっては当時の状況を知る術もない。

天井部分には小さな穴が開いていた。
通気口では無いと思うので、伝声管かな!?
上部にも登ってみたが、埋まってしまっているらしく、穴の行く先は分からなかった。

もう、一生、この遺構を見ることは無いと思うので、いろいろな方向から写真をたくさん撮りまくった。

トーチカや銃眼は全国にたくさん遺されているが、このような目的の遺構は大変に珍しいので、このまま壊されずにいれは良いのだが・・・。

遺構を案内していただいた後は、ラウンジでコーヒーをご馳走して頂く事に。
こんな 1円の得にもならないことに協力して下さり、本当にありがたい限りでした。

夕方近くになったが、まだ少し時間があったので、富士宮市立井之頭中学校に車を走らせる。
なんでも、この付近には兵舎跡があるらしい。
前方の平場にも、何となく兵舎の基礎が見えるような、見えないような・・・。

中学校の入り口には、陸軍の星マークのついた消火栓が。
海軍マークは横須賀近辺でも良く見かけるが、あまり目にする事の無い陸軍のマークは、なんだか新鮮だ。
ちなみにこの消火栓、中学生への歴史教育の為に、この場所に移設されたものだとか。

中学校近くの森の中に入ってみると、そこには当時の兵舎の基礎がそのまま遺されていた。

付近には、水槽らしきものも。

現在は植林されており、奥まで見渡すことは出来ないが、かなり大規模な施設だったようだ。

奥へ歩いていくと、何やら謎の遺構を発見。

恐らく竈だとは思うが、初めて目にする形状だ。
両側に窯を乗せる台を備え付けたとすると、一度に 10窯を煮炊きできる構造だ。

この中央部分の穴の中で燃料が燃焼すれば、効率よく左右の窯を温められるということだろうか!?
いや、でも、その構造だと、中央からの火炎が抜ける場所が調理人の位置になるので、ちょっとおかしい気も。

この十字の構造物の使途も全く不明だ。

この謎の構造物のすぐ後ろにはトイレの跡が。
だとすると、先ほどの遺構は手洗い場かとも思うが、こんなたくさん手洗い場が必要だとも思えない。

大便器の数を見ても、かなりの規模の施設だったことが分かる。
しかも、同様の構造のトイレの基礎がこの奥にもあった

基礎部分だけとはいえ、森の中に当時の遺構がこれだけたくさん存在しているのにはちょっとワクワクする。
富士宮周辺の遺構探索は今回初めてだったが、思っていた以上に当時の遺構がたくさん遺されていた。

と言うことで、今回の探索は終了。
帰りは国道 1号をのんびりと箱根越えして横浜へと帰りました。
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