当時の面影を色濃く残す、田浦・長浦地区に行ってきた。

赤丸をした山の中に地下壕が構築されている。
ちなみに手前に見える島が米国海軍の施設である。
もともとこの島は本土と陸続きであったが、明治22年に日本の海軍によって掘り割りとされた。

地下壕周辺は海軍の弾薬庫地帯となっており、弾薬を軍用地へと鉄道で運ぶために国鉄田浦駅より引き込み線がひかれていた。
使われなくなった今も、地図には載っているので廃線(廃止線?)ではなく休止線という扱いなのかもしれない。

早速引き込み線の始点であるJR田浦駅へと行ってみる。
横須賀線の線路に並び、引き込み線がそのままの状態で残っている。

一番左にあるトンネルが引き込み線専用のトンネルである。
引き込み線の一部は、戦後、民間の輸送会社が使用していたのだが、現在は全く利用されていない。

軌道敷は現在、米国政府によって管理されているらしく、立入禁止の標識があちこちに建っている。

しかし、軌道敷自体が道路のすぐ脇に存在するため、軌道敷に入らないと仕事場へ入れなくなってしまう人もいるだろう。

軌道敷の周辺にはいろいろな遺構が残っている。
現在は民間会社の倉庫として利用されているこの建物は、大正6年に旧海軍の倉庫として造られたものである。
終戦直前には軍需部修理場として使われていた。
レンガによって構築されているこの倉庫は、表面がモルタルで覆われているため、一見するとレンガ造りには見えない。

とても良い状態で残っているガーダー橋。
枕木さえ交換すればそのまま使用できそうである。

線路が垂直に交差している。
こういうのはあまり見たことがないが、引き込み線とかだと良くある事なのか?
(どうやら平面交差と言うらしく、とっても珍しいそうだ)

トンネルの手前で引き込み線はアスファルトの中に消えていた。
手元の資料によると、当時はトンネルの中まで軌道が続いており、トンネルの内部で弾薬を列車から地下壕へと移していたという。

トンネルの中に入ってみると、それを裏付けるように、塞がれた壕口が存在していた。
壕口が地面より高く構築されているのも、列車の高さと合わせていたのかもしれない。

また、当時の物であろうか、軌道終端の標識が残っていた。
ここまで列車が進入していたのは間違いなさそうだ。

弾薬を運び込んでいたという地下壕内部。
今現在その内部はどんな状態となっているのだろうか。
トンネルの内部にある壕口は完全に塞がれているため、もちろん侵入することは出来ない。
侵入可能な壕口を目指し、山肌へと進んで行く。

地下壕の内部図と現在の地図を重ねてみた。
この図を見ても分かるとおり、比与宇地下壕はかなり大規模な壕である。

山肌に沿って建物の基礎が残っていた。
コンクリートやボルトの質からしても、これは戦後の物であろう。

藪を抜けると事前の情報どおり、壕口が3つ開いていた。
しかし、壕口は3つとも侵入をためらうほどゴミが詰まっている。
一番大きく、比較的マシな壕口から侵入することにした。
内部からは冷気が吹き出してくる。

ゴミの山を乗り越え、やっと本来の洞床が現れた。
ふり返ると壕口がまぶしい。

幅 1.5m、高さ 1.8m程の壕内を進んで行く。
壕内は非常にひんやりとしている。
動いていないと寒いくらいである。

壕内を進むとすぐに井戸が掘られていた。
しかも非常にきれいに構築してある。

中をのぞき込むと透明な水がたまっていた。
なんだかとても美味しそうである。
飲まないけど(笑)

すぐ先にもうひとつ同じような井戸が残っていた。
こちらの方が形も崩れておらずきれいに残っている。

入り口付近の岩盤は比較的固く、崩落はほとんど見られない。

その先は 1m程掘り下げられた本坑となっていた。
幅、高さとも 3m程度はあるのではないか。
洞床さえ平らなら車が通れそうである。
しかし本坑に入ると崩落が激しい。
あちこちの天井が剥がれ落ち、洞床に山を作っている。
しかも、壕内の湿度がめちゃめちゃ高い。
閉塞部が多いため仕方ないのかもしれないが、ライトの光線上に水蒸気が流れている。

ごく僅かの水没はあるものの、壕内は比較的歩きやすかった。
また、洞床はふかふかしており、滑って転ぶ心配も少なそうだ。
夏島の中間層の壕に似ているなと思った。

トンネル方向へと歩いていくと、ゴミの向こうに塞がれた壕口が見えた。
このゴミは、トンネル内部が塞がれていない時代に放り込まれた物であろう。

ゴミの裏側は先ほどのトンネルのこの部分である。
ブロック積みで塞がれているだけなので、車がここに突っ込んだら破壊されそうだ。

壕内のいたるところに焼け焦げた跡が残っていた。
観音崎の壕などは、終戦後にアメリカ軍によって爆破されたらしいが、ここももしかして?
そう考えると壕内の崩落の跡も納得できるな…。

しかし、洞床に溜まっている崩落した岩盤はとても脆く、踏みしめるとすぐに割れてしまう。
崩落はやはりこの山の地質による物だろう。

壕内の一部に海軍食器が散乱していた。
全て陶器製であったが、海軍の錨のマークとは違ったマークがついていた。

突然目の前に行く手を阻む壁が現れた。
なんだこれと思い近づくと、入り口付近の壕から本坑へ降りたのと逆で、今度は本坑から上の階の壕へ上がれる斜面であった。

斜面を登ってみたところで、本日は探索終了。
事情がありそろそろ戻らなくてはならない。
この続きは次回のお楽しみとする。

戻りは違う坑道を進んだのだが、この壕はとても広いため、自分の位置を把握していないと迷ってしまいそうだった。
幅も高さも大きいため、懐中電灯の光の届く範囲も狭い。
しかも碁盤の目に掘削されているため景色もそっくりだ。
小さめの壕なら迷ってもまあ、たいしたことはないが、ここで迷うと正直疲れそうである。
入壕の際には超強力ハンディライトは当然であるが、予備のライトを何本か持って行かないと、光無しでは脱出できる自信がない。

そう言えば、奥(トンネルの東側)に行くほど湿度は下がっていたようだ。
こちら側には開口部が多く存在するのかも知れない。
入り口(トンネルの西側)へと近づいてきて湿度がどんどん上がってきた。

本坑から入り口付近に構築された小規模な坑道を通り、脱出した。
今回は時間の関係で一部分しか探索できなかったのだが、この壕は見所が多そうなので、是非また近いうちに潜ってこようと思う。
比与宇地下壕に入壕するにあたり、地下壕の様々な情報をインターネットにて発信して下さる方、また、壕口に関する情報を提供して頂いた yakumoさんに感謝致します!
おまけ

比与宇地下壕がある山の東側を調べていた際、保育園の横で何かの遺構を発見した。
二つ並んでいる階段の上部は、どちらも侵入できないほどの深い藪へと続いていた。

この階段を登ることはあきらめ、階段の前の道を奥へと進む。
道はすぐに細くなり、踏み跡に変わった。
どんどんと奥へ進んで行くと…。

さらに上へと階段が続いていた。
植物によって半分以上が侵食された階段だが、これだけちゃんとした階段をこの場所に作る理由があったはずだ。
地図を調べてもこの上に神社は無い。

階段を上った先には、『危ないから入っちゃダメよ』、という子供向け?の看板と、『国有地だから入るんじゃねーぞ』という看板が並んで建っている。

看板のすぐ横には苔むした石段が草に埋もれていた。
ますます怪しい。

しかし登り初めてすぐにあまりの藪に進むのを断念。
走水低砲台の藪より酷いかも。
ここの藪は密度がとっても濃いようです。
てことで、ここは何かありそうだが冬までおあずけ。
何か情報をお持ちの方は、連絡下さい!
再訪してます
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