この一帯にも地下壕があるという。

旧い木製電信柱のある住宅街を抜け、山沿いに進んで行く。

やがて壕口が見えてきた。
コンクリートの隙間より、這いつくばるようにして壕内へと入っていく。

壕口付近は木々が詰め込まれておりとても狭い。
匍匐状態で、奥へと進んで行く。

木々の山を越えると、立って歩ける状態に。
崩落も少なそうで、この辺りにある壕としては比較的きれいに掘られている。

とりあえずは東の方向へ進んで行く。
倉庫用途に使用されていたのだろうか。
魚の骨のように、両側に短い坑道がたくさん並んでいる。
これだけたくさんの枝坑が両側に整然と並んでいる壕は珍しい。

どんどん奥へ進んで行くと、坑道の奥に潜水具を発見。
かなり古いもののようで、持ち上げてみるとずっしりと重い。
潜水具の前には、靴に取り付けるらしき形状をした重りも残されている。

構造を調べてみる。
胸の部分と頭の部分はねじ切りされているために分離できる構造だ。
材質は銅のようで、全体的に緑青が吹いて青っぽくなっている。

奥にはコンプレッサーの残骸も。
これは、圧縮空気を作るピストンだろう。

その横には圧縮空気を貯めるタンクらしきものも。

見た目はとても似ているが、残されていた潜水具自体はどうやら2種類あるようだ。
よく見ると、耳の部分の網の構造が違う。
ひとつはこのように両耳が「井」の構造となっている。

もう一種類は、「キ」の構造で、見た目もフラットだ。

潜水具には銘板が取り付けられていた。
そこには、「東京南千住 潜水材料合資会社」と書かれている。
調べてみると、現在の東亜潜水機株式会社にあたるようだ。
会社のホームページには「日本で最も古い潜水機メーカー」との記載が。
そして、会社沿革には「昭和19年5月 陸海軍両省の管理工場となる 官民に潜水服を供給」 の文字が。
ちなみに、コンプレッサーにも銘板があり「OSAKA YOKOTA」と書かれている。
調べてみると、現在も操業している ヨコタ工業のようだ。
こちらの会社沿革にも「昭和19年4月 軍需省航空兵器総局の指定工場、海軍省監督官管理工場となる。」 との表記が。
もしかしたらこれらの潜水具は旧軍と関係のあるものなのかも!?

装着を試みる、ゴウ氏とあきひさ氏。
装着感はずっしりと重い。
水中に入った際は浮力もあるし頭部には空気が充満しているのだろうが、地上での動きはかなり制限されそうだ。

当時の技術での潜水はいろいろと大変だったのだと思う。

潜水具があったエリアから今度は北側エリアへと進んで行く。

この壕も、そこそこの規模がありそうで、まだ奥へと坑道が続いている。

ごつごつとした三浦半島の地下壕で良く見られる地質だ。

全体的にはきれいな壕だが、場所によっては天井部分がごっそり抜け落ちたりもしている。

当時の物だろう。
統制食器が落ちている。
比予宇地下壕にあったもの と違い軍のマークは付いていないようだ。

全体的には粗い掘り方の壕だが、場所によってはこのようにきれいに四角く掘られている場所もある。

今度は坑道の天井部分にボーリングの跡が。
壕床にも同様な穴があけられていたが、これは後世の地質調査の痕跡かも知れない。

縦横ともに1.8m程度の坑道をくまなく回っていく。

今度は底に「岐737」と刻印された湯呑を発見。
貝山地下壕の壕口にある碍子にも「岐」の刻印があったが、刻印を見つけるとなんだか嬉しくなる。
ちなみに、「岐」はもちろん岐阜の「岐」 で、焼かれた場所を示している。

という事で、時間も押してきたので、最後は 叶神社近くにある壕 に向かうことにした。
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