ここには数多くの戦跡がある。
その一つ、洲崎第二砲台に行ってきた。

この付近一帯は当時、東京湾要塞地帯になっており、東京湾周辺の防衛を目的に設置された数々の遺構がある。
ちなみにこの地帯標、本来であれば文字部分は彫り込みだけのはずなのだが、誰かが赤で塗ったらしい。
確かに文字は読みやすくなっているが、当時の遺構に手を入れてしまうのはいかがなものかと思う。

洲崎砲台入り口の門柱跡。
当時のままの姿で残っているが、門柱自体には何も掘られてはいないようだ。

門柱の先の住宅街をどんどんと奥へ進んでいくと、なんと掩蔽部の上に住宅が建っていた。

裏側から見てみると、なんとも異様な光景である。

掩蔽部内部は、コンクリートにかなりの厚みを持たせているせいでかなり狭かった。

なんでも、この場所が住宅街であったため、戦後に爆破解体出来ずにこのような形で残っているそうだ。

その先の山道を進んで行き、深い竹藪に分け入ると、洲崎砲台跡に辿り着いた。
堆積した葉や折れた竹により埋もれているが、コンクリートの遺構が残っていた。

付近には掩蔽部も残っていた。

掩蔽部内部は土砂が流入していたが、崩落によるものには見えなかった。
ただ、他から搬入しているとも思えない。
謎が残る状態である。

掩蔽部からさらにちょっと山道を進むと、今度はトンネルが現れた。
トンネルの回りには、旧軍が塗色したと思われる迷彩柄が残っていた。
この迷彩柄は、三浦半島にある城ヶ島砲台の掩蔽部の迷彩柄と酷似していた。

内部上方は煉瓦で巻き立てられており、通路の途中には2つの部屋が作られていた。
トンネルを抜けた先は平場となっていたが、建物の基礎跡も見受けられず、遺構は何も残っていなかった。

山道に戻りさらに登っていくと、山道脇に井戸を発見。
内部には水が溜まっていたが、湧き出ているというわけでは無く、雨水が溜まっているだけのようだ。

井戸の先には建物の基礎らしき遺構が残されていた。

すぐ側に弾薬庫だと思われる掩蔽部を発見。

高さ2m程度の内部はコンクリートにより丁寧に巻き立てられており、格子状の模様まで付けられていた。
崩落も無く、当時のままの姿できれいに残されている。

通路を奥へと進むと、弾薬庫本体と思われる広い空間が残っていた。
天井までの高さも4m程度あり、今でも立派に使えそうである。

弾薬庫から山道を 10分程度歩いたところに、旧軍によって作られた用水路が残っている。
山中にもかかわらず、石積により丁寧に構築されていた。

また、用水路にはいくつもの石橋が架けられていたのだが、そのどれもが見事な意匠であり、この場所にいると、まるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。
開発が進んでいないおかげか、たくさんの遺構が残されている館山であるが、ここ、洲崎砲台は是非また訪れてみたいと思わせる場所であった。
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